体験者が全て告白「若年性パーキンソン病と共に生きる現実」

体の悩み
編集部 P-ちゃん
今回、我がリアボリ編集部は、”若年性パーキンソン病” のご経験者でありながら、子育てママの顔を持つライター、ナツさんから貴重なお話をお伺いすることができました。
貴重なお話を元に、ナツさんから “若年性パーキンソン病” についての具体的な内容を記事にしていただき、同じように悩み苦しんでる方々のお力添えに少しでもなれればとの思いで執筆していただけましたので、ぜひご覧くださいませ!


■ライター:ナツ
はじめまして、ナツです。
私の場合、違和感を感じたのは28歳の時で、確定診断されたのは30歳の時でした。
当時は二児の母であり、発症後も1人出産しております。
それまで看護婦の経験しかなかった私でしたが、病気の進行と共に職には就けなくなり、今では同じご病気で苦しんでおられる方々のお役に立てるよう、あらゆることに挑戦しております。
そして今回は、りアボリ様より、記事のご依頼がありましたことを機会に、自身が経験したことを全てお話し、皆様のお役立てになれればとの思いで執筆いたしましたので、どうぞご覧ください。
よろしくお願いいたします。

若年性パーキンソン病という病気を聞いたことはありますか?

パーキンソン病なら聞いたことがある。
という人がほとんどではないでしょうか?

パーキンソン病は10万人に1000人の割合で発症します。
対して若年性パーキンソン病は10万人に100〜150人という少ない割合になっています。

原因は中脳の黒質という部分にあるドーパミンが減少するために起こります。
ドーパミンが減少することで起こるのが運動障害です。

運動障害の主な症状としては

  1. 振戦(震え)
  2. 動作緩慢
  3. 姿勢反射障害
  4. 筋固縮

があります。

運動障害の他に睡眠障害、精神症状、認知機能障害などがあります。

8年前、私は2児の母で子育てをしながら看護師をしていました。
毎日子育てと仕事に追われ慌ただしく過ごしていました。

体に違和感を感じ始めるようになったのはちょうどその頃からです。

若年性パーキンソン病の兆候

指摘された小さな変化

当時私はパート看護師として病院で働いていました。
部署は脳神経内科と整形外科の混合病棟。
脳神経内科にはもちろんパーキンソン病の患者さんもいて看護に携わっていました。

一番最初に同僚から言われたのが
「靴がキュッキュッて言ってるよ。」
自分では意識していなかったのですが右足がちゃんと上がりきれておらず靴の裏と床が擦れて鳴っていたようです。

それから意識するようになると確かによく鳴っていました。

でもその時は子供2人産んだんだし、その後骨盤締めたりしてなかったから歪んだんだろうな。
程度でした。

しかし徐々に右手の動くにくさを感じはじめさすがに不安になり主人に伝えると
「気のせいじゃない?疲れてるだけ」
と言われました。

気のせいと言われればそんな気もする。
確かに疲れてる。

その時はそう思い込もうとしましたが、疲れて動きにくいなんてことあるの?
と疑問に思う自分もいました。

日に日に不安は大きくなり始め受診することにしました。

病名を求めて病院巡り

まず最初に行ったのが整形外科です。
体のバランスがかなり悪くどこかの神経を圧迫して動きが悪いのだと勝手に思い込んでいたので整形外科にしました。

靴が鳴る、右手を動かしにくい、の他に右首の凝りに悩まされていたので伝えました。
触診やレントゲンをし言われた病名が「胸郭出口症候群」

聞きなれない病名で帰ってすぐに調べました。
でも調べれば調べるほど違うという気持ちが強くなり、後日別の整形外科を受診したのですがそこでも同じ事を言われました。

次は何科だろう、動きにくいのならを指令を出している脳?
そう思ったとたん怖くなったのを覚えています。

実は独身時代、大学病院の脳神経外科で働いていたことがあり様々な疾患をみてきました。
行くなら早いうちがいい。

最悪な結果を言われる覚悟で行きました。

頭のMRIまで撮ったのですが
「異常なし」

ここでも異常なしなんだ。
異常があって欲しくもないけど、ないのも嫌だ。
複雑でした。

その頃、主人も私の変化が気になり始めていたらしく、当時働いていた病院のドクターに相談していたようです。

そのドクターから早く脳神経内科を受診した方がいい。
と言われ、MRIを撮った病院から紹介状を書いてもらい大学病院を受診することになりました。

大学病院受診そして確定診断

初めての受診は不安が強かったため主人に同席してもらいました。
私の主治医となったT先生は今までの話を聞くとすぐに私の手の動き、歩き方を診ました。

私はT先生の顔色が気になりチラチラ見ていました。
入室した時とは明らかに顔つきが違う。

そしてT先生は私たちを椅子に座るよう促した後、しっかりと私と主人の方を順番に見て
「お二人共看護師さんだからはっきり言うね。パーキンソン病の可能性が高いです。」

パーキンソン病!?
私の年齢で??

その後検査の説明があるので待合室で待つように言われ待っていると
主人が
「大丈夫だから」
と一言。

色々悩んでかけてくれた言葉だと思うのですが余裕がなかった私は
「大丈夫じゃない。名前が嫌だ。パーキンソン病なんて!」
勝手に体は動くし突進歩行や小刻み歩行なんて恥ずかしい。と看護師でありながら最低な事を言いそうになり、我に返って溢れ出しそうな涙を見られまいとそっぽを向きました。

確定診断には脳ドパミンシンチとRI検査という2つの検査をしました。
どちらも半日がかりの検査で疲れる上に料金がどちらも約2万円ほどしたと思います。

パーキンソン病かもしれないという不安と絶望の中の高額な検査料金、本当に嫌になりました。

検査から3日後検査結果を聞きに行きました。

結果は「パーキンソン病」

家に帰って主人に伝えました。
真面目に話すと泣き崩れそうなので、「ビンゴー!」みたいな軽いノリで。

「何で笑っていられるの?」
と主人は目に涙を溜めつつ少しキツイ口調で言ってきました。

「何年一緒にいるんだよ。我慢してるんだよ。」と叫びたいのを必死に堪え、
「だって病名わかってスッキリしたもん」
と言ってその場を離れました。

長女は小学1年生、長男は年中さん…

それから私と私の家族の生活は少しずつ変わっていきました。

若年性パーキンソン病と子育て

「お母さん」と呼んでくれる子供達のために

診断され薬が開始になったのですが受け入れきれない私は拒薬をしました。
一生薬を飲み続けるなんて有り得ない!

まだ当時は薬なしでもほとんど変わりはありませんでした。
拒薬し満足しているはずなのに物凄い罪悪感。

薬を手に持って考えているとちょうど近くにいた主人が
「薬ちゃんと飲んでる?飲まなきゃダメだよ」
と言ってきました。

そんな事わかってるけど、私の気持ちなんてと思った瞬間
「お母さーん」
と子供から呼ばれ初めてハッとしました。

若年性パーキンソン病と診断され自分の事しか考えていなかった。
受け入れられないからと言って拒薬するのは自由だけど主人の気持ちを考えた事はあるのか、子供達の事を考えた事はあるのか。

パーキンソン病患者である前に私はお母さんでありたい。

出来ないことが増えていく

進行性の病気であることはわかっているつもりでした。
しかし今まで出来ていたことが出来なくなるという現実は辛いものです。
オフになり始めると動きがゆっくりになり力も入りにくくなります。
そうなると思考力も低下し起きていることもキツくなります。

学校の書類や宿題の丸付け1つにしても、とてもできる状況ではありません。

また薬を飲みオンになり始めると今度は*ジスキネジアが出てきて自分の意思とは関係なく動き止めることができなくなります。

ではいつ書類や丸付けをするのかと言うと薬の効果が切れる前もしくは薬が効き始めた頃です。
長年薬を飲み続けているとなんとなくわかるようになってきます。

書類だけでなく料理も同様のことが言えます。

  • オン … 薬が効いている時
  • オフ … 薬が効いていない時
  • ジスキネジア … 薬が効き過ぎ勝手に体が動くこと
諦めていた3人目

長男を出産してから7年が経過し、もともと3人目が欲しかったものの薬の影響が気になり諦めていました。

しかし3人目の妊娠が発覚しました。
嬉しい。ずっと3人目が欲しかったから。
でも嬉しいだけでは育てていくことは出来ません。
私の体は既に薬を飲まないと思うように動かすことが出来ない状況でした。

主人と初めて堕すかどうかの話をしました。
私の中で堕す選択肢はなかったものの
「頑張るから」
といって何とかなる病気ではないこともわかっていたので簡単に言うことが出来ませんでした。

同じ親から生まれてくるのにこの子だけは素直に喜んであげることが出来ないなんて。
私が病気でなければ迷うことなく歓迎されて生を受けることが出来るのに。

主人とも何度も話し合い、母にも相談しT先生、産科の先生とも話しあって産む決心をしました。

内服薬はドパコールという薬のみ内服許可が出てあとは中止になりました。
臨月になる頃にはトイレに行くのが精一杯で入浴は一人では出来なくなったので主人に入れてもらいました。

出産予定日の前日に管理分娩目的で入院し自力で出産することが出来ました。
出産時はジスキネジアが激しく分娩台から落ちないように体を抑えられたのを覚えています。

レスキューアポカイン

産後新しい薬が追加されたのですが効きがよくありませんでした。
そのため赤ちゃんが夜中泣いて起きても抱きかかえることが出来ず、オムツを替えることも困難でした。

それをT先生に相談するとアポカインという自己注射を試してみるかと言う話になりました。
アポカインは「今すぐに動きたい」と言う時にレスキューとして使う注射です。

内服薬だと飲んで30~60分しないと効いてきません。
もしその間に下痢や嘔吐などしたら大変です。
私に迷う余地はありませんでした。

私の場合調子が良い時だと打って5分もしないうちに効いてきます。
今は内服薬とアポカインを打つタイミングを計算しながら生活しています。

一歩踏み出すことで広がる輪

ありのままのブログ

ある日主人が
「自分の経験をブログに書いてみたら?」
と言ってきました。

あまり乗る気ではなかったものの若年性パーキンソン病だけでも少ないのに妊娠、出産までとなったら限られてくる。

私の経験が少しでも役に立つのならと考え直しブログを始めました。
最初ははけ口のようにマイナスなことばかり書いていたと思います。
普段は口に出せないことなどをブログにぶつけスッキリしていました。

そんな私のブログに対し共感のコメントが寄せられるようになり、少しでも役に立つのならと始めたはずのブログが今では多くの読者の方から支えられるようになりました。

共通していること

ブログを通して若年性パーキンソン病の人たちが言っていること。
「周りに同病の人がいない。」

それは私もそうです。やはりブログだけで繋がっているより実際会う方がより共感できます。
本当に私だけじゃないと確信出来ます。

初期の若年性パーキンソン病の人たちはその若さゆえに隠したい知られたくないと考える人が多いです。

私も腰が痛いから歩き方が変になると言ってみたり、毎日飲む薬はビタミン剤と嘘をついていました。

また病気のことを告白しても外出する際は薬を飲み動けるようになってから出発します。
そのため外で友達と会って言われるのが

「思ったより元気そう」
と言われてしまいます。

病人扱いしてもらいたいわけではないのですが、目の前にいる私は今まで通り元気に見えるのに薬が切れてしまうと一人でお風呂に入れないと言われ信じることが出来ますか?

オンの時の私とオフの時の私は別人です。
これはパーキンソン病という病気がなかなか理解してもらえない理由の一つです。

仕事にしてもさっきまでみんなと同じように出来ていたのに急に出来なくなると周りからはサボってるの?

さっきまで出来てたじゃんとなってしまいます。

そうなると説明しても病気自慢やオーバーだなと言われるので嘘をついてまで隠そうとしてしまいます。

このような本心を言う機会はありません。

ブログでやり取りしていくうちに一つの強い思いが芽生え始めました。

若年性パーキンソン病の会を開いてみよう

実際に会ってみたい。
同じ悩みを抱えて生活している人と話してみたい。

そこでブログとツイッター、知り合いの保険屋さんのFacebookで参加者を募りました。

初めての試みで第1回目は4名という少人数からのスタートでしたが、集まってくれた人達全員理解されにくい、周りに伝えるタイミングに悩んでいると言っていました。

そんな悩みを今までバレないようにと必死に隠してきた気持ちが一気に溢れ出したかのように終了時間ギリギリまで話は尽きませんでした。

そして
「初めて同病の人たちと会う機会を作ってくれてありがとう、第2回目も必ず開催してください。」
と言ってもらいました。

何か最新の治療法や新しい情報を共有する、といったようなちゃんとした会ではなく本当にただ話すだけの会でした。

でもそういう会もあっていいのかな。
と会を実際にしてみて思いました。

若年性パーキンソン病との今後

私のお母さんはパーキンソン病

パーキンソン病と診断され一番悩んだのが子供たちを取り巻く環境への対応。
子供は素直な分残酷です。

勝手に動く体は子供でなくても驚きます。
公共の場で笑われた事もあります。

私は耐えることが出来ますが、もし学校で友達から
「お前のお母さん、変な動きしてる」
と子供が言われたらどうでしょうか?

子供たちにはパーキンソン病がどのような病気か話しています。
でもそれを上手く友達に説明することは難しいと思います。

この問題はまだ私も模索中ですが、出来れば子供たちが若年性パーキンソン病を正しく理解し友達から「動きが変」と言われても傷つくことなく説明できるようになって欲しいと思っています。

どちらでもないグレーゾーン

若年性パーキンソン病と診断され徐々に看護師として仕事がしにくいと感じ始めた頃、一度だけハローワークに行ったことがあります。

障害者枠で仕事を探すつもりでした。
しかし
「手帳持ってなかったら手帳もらってきて」
と冷たくあしらわれました。

私の知識不足は否めませんが、障害者手帳をもらって来てと言われても欲しいからもらえるものではありません。

結局一般で探し面接の際に病気の事を伝えました。

採用されたものの認知度の低い病気であることと、一般で入ったこともあり同じ給料を貰ってるのにパーキンソン病だからあれは出来ない、これはし難いと言えずストレスになっていきました。

そこで私が感じたのは健常者としては働けないけど障害者手帳をもらうほどではないグレーゾーンの人たちが置いてけぼりになっている。

白か黒かはっきりさせたら解決ではなく本当に困っているのはどちらにつくことも出来ないグレーゾーンの人たちです。

このことに気付くことが出来たのは若年性パーキンソン病になったからです。

出来たら今後グレーゾーンにいる人たちの支援をしていくことが出来たらなと考えています。

幸せかどうかは自分が決める

30代に入った途端、
「若年性パーキンソン病です」
と診断されたら不幸ですよね。

当時はそう思っていました。

でも1日のうちで動ける時間が限られているからこそ、体は動きにくいはずなのに健康なと時に比べ色々なことに挑戦するようになりました。

時間がない後悔したくないという気持ちが強くなりました。

私の場合一概に病気だから不幸だとは限らない、体は動かしにくくなっているけど心は健康な時より満たされています。

最後まで読んで頂き有難うございました。

Q&Aコーナー

1.
難病で完治しませんが今でも気持ちが落ち込むことはありますか?
1.
オフ状態になると考え方もマイナスになるのでしょっ中落ち込んでます。
周りから見たら二重人格と思われてそうですね。
2.
症状で固縮がありますが痛みはありますか?
2.
あります。寝返りが出来ないため朝起きたら全身が痛いです。
痛みを感じない日はありません。
3.
周りの人に伝えるタイミングは?
3.
「今」と思った時だと思います。私の場合はジスキネジアを誤魔化せなくなってきたタイミングでした。
親しい人にはもっと早く伝えていました。

P-chan

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・20代前半からエステ業界に入社し2年目から個人業績全国1位エスティシャンに成長。 ・もともと美容マニアだったのでPB化粧品の商品開発に携わる。 ・お客様に...

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